「カラマーゾフの兄弟」1~2巻感想
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」1~2巻読み終わりました。大変面白いんですけど、面白いんですけど、考えながら読まなくちゃいけないところが多いので、寝不足の時に電車の中で読んでると結構寝てしまい、読むペースが鈍るのが難点です。
2冊読んだ時点で印象に残った点をいくつか感想とともに書いておきます。
1)女性・子供への抑圧・虐待
当時のロシアの現実だったのだろうと思いますが、抑圧されて精神的にバランスを崩している女性が複数登場し、また「多かった」との説明もあったりします。私はそれがまず読んでて気になりましたが、途中からは罪のない子供が苦しい思いをしている場面が増え、社会で頻発している虐待のケースや劣悪な環境で労働させられている子供たちについての強い怒りや嘆きのセリフが出てきます。ドストエフスキーさんは女性のほうも若干の同情はあるみたいですけど、特に子供のことについては本当に強い怒りの念があったんでしょうか、こちらも読んでて重く苦しくやるせない気持ちになる文章が続きました。今でも虐待のニュースは世の中を騒がすことが多いですが、昔からこういうことはあったんだな、今はまだ「子供の人権」という概念、それを守ろうという意識や法律があるだけ世の中は少しだけど良くなってるんだなと自分に言い聞かせて気持ちを落ち着けながら読みました。
2)民衆への愛情
金持ちや貴族の男性は非常に傲慢で、貧乏人や召使を家畜扱いする人非人のようなキャラクターが多いです。一方で「民衆」は純粋で素朴で飾らず、真の信仰を持つ人達という牧師さんのセリフがありました。これに関してはまだ何も感想はないですけど「民衆」はキーワードなのかなと引っかかりました。
3)現世=天国の宗教観
天国は死後にあるのではなく、自分が心を開けば実は今いるところが天国なのだという思想が後半出てきて、正直驚きました。キリスト教でもそういう思想があるんですね。
「天国はわたしたちひとりひとりのうちに隠されていて、現にわたしのなかにもそれがあり、わたしもその気になれば、明日にもじっさいに天国がわたしに訪れ、それがずうっと一生つづいていくんです」
仏教でいうところの(仏教にもいろいろありますが)現世での成仏って話ですね。
あと、物質的な幸福に囚われないことが幸せにつながるとも説いています。まぁこのへんはキリスト教でもあるのかなってわかる気がします。
「欲求を増大させる権利から生まれるものとは、はたして何なのか?富める者においては孤立と精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人である。」
「自由というものを、欲求の増大とそのすみやかな充足と理解することで、彼らは自由の本質を歪めているのだ」
「宴席、馬や馬車、地位、奴隷に等しい下僕を得ることがすでに不可欠なものとみなされ、そのために人々は、命や、名誉や、人間愛までも犠牲にしてその必要を見たし、それができないとみるや、自殺さえしかねない」「そうした人間がはたして自由だといえるのか?」
(ミニマリストを目指す私としては共感しましたが、そこはさすがに単なる断捨離論という話じゃなくて) 俗世間的なもろもろへの執着を捨てて、万物への愛と他者への奉仕を通じて精神的な高みに到達すべきであるという話なんだと思います。個人的に思ったのは、その俗世間的なもろもろというのは要するに「自分への執着」というか、自分の欲求、快楽と自分が他人からどう見られるかということかと。そんな小さい自分を捨てて他人や社会のために何が出来るかを考えること、それが人間にとっての幸福への道だと。これについても仏教的だと思ったし、アドラーも同じようなことを説いてましたね。私も基本的にはそういう思想なので非常に感動しながら読みました。
興味深かったのは、別の箇所になりますが、救世主の奇跡についても、囚われることは自由とは言えないとあったこと。たぶん「奇跡」にすがるのは、他力本願なことで、物質的な幸せに囚われているのと同じことだと意味なんじゃないかな。ちょっとそのへんの箇所は難解でよくわからなかったんですが…私は「神」というのは「原因と結果」が成り立つ物理法則のことではないかと昔から考えてるのですが(普段はそれが当たり前の大前提として暮らしているけども、実はこれってすごいことじゃない?と時々思い出す)、思いとしてはそんな感じかな~と。道理がなりたつこと、それが世界の秩序だと。
とりあえずここまではそんな感想でした。あと3巻、頑張って読みます。